昭和44年03月09日 特別奉修委員
よその子であれば、そう気にも、ならないような事でも、それが、自分の子供であったりするとそれが非常に気になる。やはり、天地の親神様も同じ事。人間氏子の、総氏子の、ことを祈り願いして下さるけれども、その中でも、信者氏子と言うて、とりわけ金光様とこうおすがりをする者、生神金光大神様天地金乃神様と言うてお縋りをする者、それを信者氏子とお呼びになる。
いわゆる、まあいうなら氏子の中の氏子とこう言うわけであります。その氏子の中の氏子が、言う事すること、ね、神様が関心をお持ちにならないはずがないわけです。ね、信心のある者とない者は、親のある子とない子の違いと仰せられるのはそんなところもあろうかと思うですね。親があるからこそ、厳しゅう、せんぎたてを致しましたり、または、場合には折檻するような事もあります、親があるから。
これがなら例えば浮浪児か何かで、親がいわゆる親なし子であれば、どんな風をしておろうが、どんなわがままをしておろうが、誰も怒る者もなければ、それを折檻してまでもわからせをするような者もありません。ようなものだとも思うですよね。これは例えばなら私でもそれをを思います。ならここにもたくさんな御信者があります。そのたくさんなんな御信者の中でもです。
なら例えば特別奉修委員といやぁなら皆さんの事でしょう。ね、または総代だ幹部だと、なら合楽のこの人は御信者ぞという言われる、いわば一角の御信者であればあるほどですそれをやっぱ私感じます惜しいなあと思う。それが普通なら感じない事でも、それが普通の平ならば感じない事でも、それが特別と名が付く程しの信心をしておるならば、それがなおあの感じる、そりゃ神様のそれと同じじゃなかろうかとこう思う。ね
、それこそ毎日毎日こうやって朝参りをさせて頂いておる者が、ね、惜しいなあそげなんことで良かかと、例えば時折しか参ってこない人ならばそう感じないけれども、なら毎日でも参っておる人たちの上にはです、それをこれだけの教えを頂きながらと、例えばそれは身近であればあるほど、ね、特別であればあるほど、ね、自分の子であればあるほどその思いは募るのですよ。
ですからそこんところを一つお互いが分からせて頂いてですね、日田の堀尾先生のお話を頂いたときでしょうか、このう見事な大きな水晶の玉を見られた事があったという。ところがそれにそのうもう本当に、ま糸くずほどの傷がその中にこうあるわけですね。これが本当の玉に傷だというてその言われたという話。当時もう昔の事ですがこれがもし中に、ここに傷がなかったら、当時の金でやっぱり一万円ぐらいする。
けれどもそのこの傷がたったあるばっかりに、もうこりゃ玉の玉に傷であって、所謂、傷物としての値打ちしかないというていわれた事があるんですがね。信心をさせて頂く者が必ずしもその完璧という様な事は、まあその考えられませないけれどもですね、やはりその願う所はその完璧を願って、もうこん位こん位の事はしようはなかと、いうのじゃなくてそれに矢張り取り組んでいかなければね、取りくんでいきよる。
その精進の姿というものにはですね、もういくら親でもどうも言い様はないです。けれどもねそれを例えばそのなおざりにしておる姿は、それは神様が、ね、信者氏子と呼びかけて下さりならここでいうならば、特別の信心をしておるという人達の上にです、それがもう本当にはがゆい事だとこう思うです。あれ程しの信心しながら、これ程毎日お参りをさせて頂きながら、どうした事であろうかとこう思う。ね、
出来る出来ないは別なんだ。それに本気で取り組んでいないという事は、私は許されないと思うですね。できんなりにでもそれに取り組んでおる。また失敗しましたとと言いながらもです、それに取り組んでおるならば、私は神様それでもうあれで一生懸命やっておるのじゃからと。例えばそういう思いで見て下さるであろうけれども、ね、それを知りながら、私はそれをなおざりにしておる。
又はそれをいうならば知らない。ね、知らないというか気が付かないでおるような場合も、まあるかもしれません。昨夜の御理解の中にもありましたように、昨日ある人がある人がある人の事をお知らせを頂いた。そのお届けここにあったんです。私もそれを聞いて、はあ本当にこの人にしてそれだから、と私は思ったんですけれどもね。これなんかは本人も気付いていないかもしれません。
けれども本当にやはり、心しなければ気付かないところにこういうようなお粗末御無礼ができていきよったり、または自分はこれは改まらにゃならんということを分かっておりながらそれに取り組んでいなかったりするようなことでは、信心の精進をしておるという事、にならん。それがもう私も、その方がここでいうならば、実意丁寧の、まあ、見本のように言われる人なんです。その方の事を頂いておるわけです。
頭の髪の毛が薄うなっとるっちいうんです。まだ薄うなっとる人じゃないんですけど、頭の髪の毛が薄うなっておるという御神眼ね。そしてここに、あごひげがこうやってひげを伸ばしておんなさるというそのお知らせであった。はあ、そう頂いてみると私も思い当たる節がいくらもあるわけです。ね、これだけいうならば実意丁寧な信心をしておるようにあるけれども、その人が知らず知らずの間にいつしか、ね、
この頭の髪という事は、信心と、神ということであろうと思う。信心が薄うなりおる。髪の毛が薄うなりおる。そして、このひげがこうある。私くしはひげのお知らせいわばこの、横着とか慢心とかといったような意味で頂くんです。だから私しゃひげ生やしたっが一番好かんっちいうて、ね、何のためにひげ生やさにゃならんか、人を威嚇するため、ね、人にちょっとでも良う見せようとするため。
そのう本当ですよ。ですからもうここではひげを生やす人がないですね、御信者の中でも私くしがひげを好かんから。久富先生がひげを生やしちゃったです。ほっであなたが熱心になってきなさったときに、ひげはどうでんこうでんいっちょ落としてきなさいっちゅて、言うたことがある。すぐひげを落として来なさったですよ。ところがお互いがですね、それこそ内の、自分の心の中にひげを生やしおる。
俺はもう幹部だぞ俺は総代だぞ、これだけは俺でなからかなきゃできんのぞ。もう親先生がこれだけは俺を信用してござるといったような、その何て言う思いあがるとでも言うでしょうかね、ええ。頭の毛が薄うなってひげの方ばこう生やしおる。ですから自分でも気付かん中、なりにですね、そのような事になっていきおる。ね、結局自分を本気で見極めようとしない所に自分の欠点すらも分からない。ね、
自分の傷のあることを、それを気付、つこうともしない、気付こうともしない。こういう信心、精進しておる者の姿とは言えない。ね、私はできるできないは別だと、精進しておることだと。ね。
昨日、それも、その方がある方のことを頂いて、その方はもうとってもいいそれこそ根性のある信心をしますけれども、すぐ顔色に出す。プリプリするわけです。ちょっと何かあるとぱっと顔色が変わるくらいにあるわけですね、その人は。根性がしっかりしとるからです。
ところがその人はね、そのプリプリするような根性があるから信心ができるってその頂いた(ちゅうんです)。ね、そういう自分にその根性にその本気で取り組んでおるわけなんですよね。だから信心ができる。だからその人が例え根性が悪かってもです、ね、根性には良い根性、悪い根性ありますよ。けれどもそのプリプリ腹かく、ことやら悪い根性です。そげんとこに根性回してから、というわけなんです。ね、
普通なら喜ばにゃならんとこに喜びきらんです、根性が悪いと。ね、けども、その人はそれを自分で知ってるわけです。それに取り組んでおるから信心ができるです。だから人間はね、あの、仏様のごと、人とかね、あの人は、ヤシャのような人って、区別はないです、神様の目からご覧になりや。問題はそれに取り組んでおるか取り組んでないかちゅうことなんです。
どんなにお地蔵様のようにしとったっちゃ、それこそこうやってひげを生やしよんならもうつまらんです。ですからそういうところをです、ね、本当に自分の根性が悪いなら根性が悪いこと、に、自分で気がついて、その根性に本気で取り組んでおるから信心ができると言われるくらいに見られたらです、それはもうそれでいいでしょうが。ね、神様の目からご覧になるならそげんなんです。ね、
信者氏子と、ね、世界中の氏子にとこう仰る、世界中の人間のことを、思うて下さっておる神様ですけれども、その中でもやはり信者氏子というと神様は、そういう見方をなさるわけです。ならこれは合楽の教会においてもしかり。ね、特別特別が付くような信心をしておられるのですから、ね、私は本当に自分のそうした、傷というか欠陥に、を、ね、本気でそれに取り組ませて頂いて、ね。
まあ願いとしてはです玉に傷と、本当にそのそういう人がある、惜しかねえこの人ばっかりはここいっちょ改まると素晴らしかばってん、ちゅうことがあるですね、それに取り組まんから、それが身近であれば身近であるほど、特別であれば特別であるほど、なら神様は、また取次者は、それをはがゆいことだなあと思うわけです。ですからそれな、なら取り組んでおればです。
あげんして取り組んどる姿を見ると、それこそまいじらしいほどの思いが掛けられるようなものであってね、取り組んでいないと言う事は是は許されないです。それがなら信者であれば信者であるほど、神様その思いをつ募らせなさるです。神様にそういうはがゆい思いをさせて本当のおかげが受けられるはずがないから、そこへ気付くということですね。そこに本気で気付かせていただかなきゃならん。
通ってならない道を、ね、例えば私今日ただ今あのう御神前に出らせて頂いたら、簡単な例えばあのう何ちゅうでしょうかね、もうそこにはあの、簡単なけれども通行止めがこうしてあるわけですよ。それでくぐっていきゃいけん事なかこう、のかそうと思えばのかされんことないわけです。それをくぐって行ったりこれをそんのけちから、そこば通っていこうとする。
だから後からの者もですね、はあ通って良かつばいのっちゅってから通りおるところを頂くですよ。ね、信心しおったっちゃあれいやけんで、はあ案位の事はよかばいのちゅうごつなってくるわけです。もう本当にすべてのことにです、いちいち御神意をうかがう気持ちです、自分の心持ちの中に、今こう行こうと思いおりますが行ってもいいでしょうかとお伺いをする気持ちなんです。ね、
それをこれはもう行っちゃあいけんばってんとは思いながら、平気でそこを行きおるようなことをする。ね、それで、やはり神様が、私ははがゆい思いをなさるであろうとこう思うです。ね、これはね、特別な信心をさせてもらいおれば、しおるほど、熱心であれば熱心であるほど、神様がはがゆいと思いをなさることは、よけい募るという事をね、知らにゃいけません。
特別な信心をすりゃあ特別なおかげを受けられるけれどもです、特別な信心をしておる者がです、ね、いつまでも改まる事にも努めない、そこに、あの、焦点を置かないなら、ね、それこそ惜しい、玉に傷が惜しいとこう、思われるわけですよね。そういうところに気付かせて頂いて、本気で一つ、ね、神様に、まあ、安心して頂けれるおかげ、信心を頂いて、おかげを頂きたいと思うですね。
夕べの先生その頭んこう薄うなってござる人、ひげの生えてござっととは誰じゃろうかち、私じゃなかじゃろうかちゅうごたるふうでですね、何人も言われる方があったんですが、皆さんどうぞ皆さんの、頭の薄くなっとる、皆さんかも分かりませんからいっちょ思うてみてください。もうですね言う事態度に現れておる、慢心が。ね。それがねそんキザじゃないですよ大体が、信心を頂いておる、実意丁寧な人ですから、ね。けれどもどことはなしにそれが現れておる。
だからね一つもうこの髭を生やしてはおかげにならん。ね、愈々信心は矢張りうぶ(・)な心でね、初心の気持ちで本気であらたまらさせて頂く事に取り組む、出来る出来んは別として、ね、そして例えばあのこの玉に傷と言う様なのでもね、もうこれはどうにもしようのないごとあるけれども、これをすり減らしてすり減らして、いわば自分が空しゅうなったらですね、是がなくなったらもう一切が無くなるです。
その無はあの無限につながると言う事を、泉尾の教会の先生が、今月言うておられますですね。自分を空しゅうするということはですね、無限、無尽蔵のおかげに繋がるんだと言うておられます。お互い限りないおかげを頂きたいでしょうが。ね、それにはですね、自分を愈々空しゅういかなきゃいけません。ね、だからその空しゅうしていくその過程においてです、矢張り自分のそれに気付かせてもらい、それに取り組んでいく信心修行がなされなきゃいけんと思うですね。
どうぞ。